本書の触り 3

孔子と九夷の関係

 『論語』の憲問篇に「(げん)(じょう)()して()つ」という一条がある(宇野哲人『論語新釈』)。

  

(げん)(じょう)が、ある日、孔子が来たと聞いて、蹲踞(うずくま)って孔子を待った。孔子は原壌が失礼な様子をしているのを見て「幼少の時には長上に対する道を失い、成長しては徳行(とっこう)を称せられず、これまで一つも()い事をしていないのに、老いても死にもしないで、久しく世に永らえて(りょう)(ふう)()(ぞく)を害するのは、(ぞく)というべき者である」と()って、これを責めて、(みずか)()くところの(つえ)をもって(すこ)しく原壌の(すね)()って、蹲踞(そんきょ)するのを止めさせた。

  

 原壌は孔子の幼馴染みの人であるとされる。孔子は幼少の時から老人になるまでの原壌の人生を総括して「賊というべき者」と断じている。弟子にはけっして投げつけない激しい言葉である。

 また、「夷して俟つ」とあることから、原壌が東夷の世界の人であったことがわかる。「夷人」らしい姿勢で待っていたというのである。この「夷す」を「胡坐(あぐら)をかく」とする訳もあるが、あたらない。胡坐は胡人や胡麻、胡瓜(きゅうり)などと同じく、中国北方異民族に由来する言葉であるかのようにもみえるが、『大漢和辞典』にも漢籍の出典がなく、漢語ではない。確かではないが、「足組む」(『古事記』上巻)という日本語の古語からきているようで、胡坐をかくという訳はここではふさわしくないことになる。

 片山一道氏の『古人骨は語る』(同朋舎出版)によると、足首の距骨と下腿の脛骨が関節する足関節の前縁に現れる蹲踞面と呼ばれる関節変形は、現代日本人でも珍しくないが、縄文人では特に多く出現するという。また、范曄は『後漢書』倭人伝において「普通はみな徒跣(はだし)であり、蹲踞(そんきょ)(両膝を折って腰をおろす)の姿勢で恭敬の意をあらわす」としていて、蹲踞を倭人の習俗としている。蹲踞が倭人の習俗とされていたのであれば、漢族であれば蹲踞の姿勢をとるはずがない。このようなことを記録しているのは范曄のみで、范曄は倭人の習俗にそうとう詳しかったことがわかる。このことからしても、『後漢書』鮮卑伝で汙人を倭人と直したのも、理解したうえでの改訂であったものと思われる。

 孔子は、弟子の前では礼を教えているわしの立場を考えてくれと、一度ならず原壌に言い含めていたのであろう。幼少の時から長上に対する道を失い、とあることから想像すると、原壌は小さいときから漢族に対してもタメ口であったのであろう。「東夷が友達なのか」と当惑の表情を浮かべる若い弟子たちの視線を感じて、孔子は原壌のこれまでの傍若無人な態度の数々をあらためて思い出し、弟子の前であることも忘れて怒ったのである。夷狄と暮らすのは人間をやめることと同じ、という価値観からすれば弟子たちの反応は当然である。この話は弟子たちの作り話ではない。弟子たちはアウトローと付き合いがある師の行動が理解できなくて困惑しているのである。それでいて、何か意味があるはずであると内心畏れてこれを記録したのである。

 「蹲踞って孔子を待った」という訳もいい訳とはいえない。これでは杖で脛を撃った孔子は偏屈で狭量な老人というイメージになってしまう。ここは「原壌はウンコ坐りで孔子を待っていた」という訳が孔子の怒りを理解するヒントになるのである。『論語』に下品な訳はふさわしくないという人がいれば、孔子の怒りとはつりあわないが「原壌はヤンキー座りで孔子を待っていた」という訳でも情景は浮かぶであろう。原壌はどこか、礼儀知らずの「フーテンの寅」を思わせる。

 原壌はまた、青年時代と思われる孔子の生々しいエピソードを伝えている唯一の人物でもある。『礼記』(竹内照夫訳、明治書院)檀弓下篇に、次のような一節がある。

  

 孔子に古くからの知人で原壌というのがあり、その母が亡くなった。孔子が壌の手助けをして、(かく)の材木(を職人に渡すため)の準備をしていると、壌はその材木を積んだ上に登り、「もう長いことだ、わたしが歌に託して思いを述べる暇のなかったことは」と言い、歌った、「たぬきの頭の毛の、まだらのように、美しい(もく)()。女の手のように、すべっこい木の肌」。これを孔子は聞き流しておった。供をしていった者が、「先生、これでもまだ(あの人との交際を)おやめになれませんか」と()くと、孔子は答えた、「親類には親しむことを忘れるな、古い知人にはそのよしみを忘れるな、と聞いておるよ」。

  

 椁は棺が直接土に触れないように棺のまわりを囲む木の外枠である。葬儀の準備をしている際に歌うなどというのは礼に反する行為であるが、原壌は漢族の礼などには無頓着で、孔子の進言で用意した椁の材木に登って歌った。原壌は、母の看病をしていて、ずいぶん長いこと歌を歌うことを忘れていたものだなあ、と正直な感情を語っている。青年時代は歌わずにはいられない年頃であり、また歌の内容も青年らしいものである。竹内氏の訳では「先生」となっているが、原文は「子」で、成人男性に対する敬称「あなた」であるから、この「従者」は単なる友人であろう。「あなたねぇ」と呼びかけるその意見はどこか説教調で、批判的でさえある。問いかけに対して「(きゅう)之を聞く、親しき者には......」と自分の名をあげたのもへりくだった感じで、弟子に対してなら「吾之を聞く」と答えたはずである。

 原壌は自分の感情に素直に生きていて、われわれが「寅さん」にどこか惹かれるところがあるように、孔子は原壌に惹かれるところがあったのであろう。原壌の脛を杖で撃った孔子は一方で、友人から意見をされても原壌を切ることなど考えられないのである。原壌が幼馴染であったことは、孔子が幼いときから九夷の世界と深い関係にあったことを想像させる。巫女であった孔子の母(白川静『孔子伝』中公叢書)が住む貧しい地区の近くに九夷の住む地区があって、ひょうきん者の幼い原壌が、「野合の子」として生まれて孤独な世界に生きていた幼い孔子を九夷の世界に引き入れたのであろう。原壌の父の影がみえないところからすると、原壌も孔子と同じ境遇で、母ひとりの子であったのかもしれない。原壌の母の葬儀を手伝っていることからみても、孔子はほかの九夷とも少なからぬ関係があったはずである。ただ、ほかの九夷は原壌のように出しゃばらなかったから記録に残らなかったのである。

 九夷が孔子を生んだわけではない。しかし、九夷が存在しなければ、孔子の思想はやはり違ったものになっていたかもしれない。九夷が特別の存在であったのは、「誰にでも教えを乞うた」若き日の孔子にとって、まさに師であったからであろう。まわりの中国人とは違う思想をもつに至ったのは、理由があったはずで、たまたまの偶然ではなく、それなりの体験があったのである。

 加地伸行氏の『沈黙の宗教―儒教』(筑摩書房)は「招魂再生というシャマニズムは中国においてはもちろんのこと、朝鮮半島にも日本列島にも広く存在していた。だいたいシャマニズム(英語)ということば自身が、ツングース族(シベリア東部や中国東北部に住む民族、たとえば満州族)の宗教者を表わすサマン(シャマン)から来たことばであることは周知のことである」としている。東北アジア一帯の原始宗教はシャマニズムで、漢族も九夷も似たような宗教意識とバックボーンをもっていたのである。孔子は葬儀屋としての原儒(同『儒教とは何か』中公新書)から、仁者としての生き方を追求する儒教という一大体系を作り上げる。孔子の理想は君子の国と呼ばれた九夷の世界で、「九夷とともに暮らしたい」という告白がその証しである。

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