本書の触り 5

韓伝のなかの倭韓

 東洋文庫版もちくま書房版も「倭と韓」が帯方郡に属するようになったと訳している。中華書局の評点本も「倭と韓」をふたつの固有名詞と解釈して別々に傍線を付けている。しかし、南宋の伝紹熙(しょうき)(一一九〇~九四)刊本の『三国志』をよく見ると、これは「倭韓」でひとつのことばであって、分けられないものなのである。

 写真は帝室図書寮(現在は国会図書館蔵)の伝紹熙刊本の影印で、台湾商務印書館から出版されているものである。現存する最古の刊本のひとつである。編者の張元濟は(ばつ)で『魏志』三巻は欠けていたので、涵芬樓旧蔵の紹興(一一三一~六二)本で補ったとしている(涵芬樓の紹興本は『蜀志』『呉志』ともに失われていた)。紹熙本で欠けていた三巻は、巻第一武帝紀と巻第二文帝紀、巻第三明帝紀で、目録も紹興本から補ったことがわかる。紹熙本には版心の上下に製本の際の目安になる折れ線があり、欄外の上方部分に耳(図27の韓)があるが、紹興本にはいずれもないからである。

 目録をみると馬韓、辰韓、弁韓、()韓となっているが、本文は韓伝、辰韓伝、弁辰伝、倭人伝となっている。韓伝が馬韓、辰韓伝が辰韓、第一と第二の弁辰伝が弁韓に該当するのは間違いないものと思われるから、倭人伝が該当するのは僂韓ということになる。僂は「かがめる、まるく曲げる」意味であるから、于、汙、倭と意味が同じである。僂が佝僂(くる) (=せむし)の意であるのは疑いない。

 樓の異体字が楼であるように、あるいは數の異体字が数であるように、僂の異体字は偻である。偻は倭の(のぎ)の部分が米に変わったものである。禾は「あわ、いね」の意味で、「穂のたれたあわの形を描いた象形文字。まるくたれる穂の形、あるいはまるいつぶに注目したことば」である。禾と米は同義で、僂=偻=倭という関係がなりたつ。僂韓は倭韓の別の謂いである。つまり、『三国志』の韓伝に出てくる「倭韓」はこの僂韓のことなのである。

 韓伝の記事は、高句麗が臣属し、韓族も濊族も帯方郡の支配下に入り、ついには半島の南端にいた倭韓も支配に服するようになった、ついに半島全域が漢の支配下に入ったという意味なのである。倭韓が帯方郡に属するようになったことが、卑弥呼の朝貢を引き出すのである。韓伝にありながら韓倭の順ではなく倭韓の順になっているのは、倭の重要性を認めているからなどという森浩一氏の論(『倭人の登場』)は的が外れている。

 桓・霊帝時代(一四七~一八九)の末期になると、郡県の勢力範囲になかった韓の地に流入するものが多数あった。帯方郡は支配地を広げるために攻撃をしかけ、韓族、濊族が支配下に入り、在韓倭人も遂に郡に服するようになった。

 わかりにくい話の枝葉を刈って幹だけにすると、事実関係はこうではなかったか。

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