日本人のルーツ倭韓(わかん)

まえがき日本人のルーツ倭韓

 ここで述べることは、朝鮮半島の南端に倭国があったという前提からすべてが始まっている。この倭国とは『三国志』韓伝に出てくる「倭韓」のことである。『三国志』や『後漢書』がたびたび、馬韓や弁辰と境を接して南に倭人が住んでいた事実を記録しているのに、日本ではこの記録は軽視されてきた。『三国志』や『後漢書』の記述を認めないのであれば、日本の古代史はスカスカの状態になってしまい、確かなことは何も語れなくなる。『三国志』や『後漢書』の記述を認めるのか、認めないのか。それによって日本の古代史はまったく違ったものになってしまうからである。

 倭人のルーツのひとつは『漢書』(一世紀)地理志の泗水国の于であると前作で論じた。この于が『三国志』(三世紀)鮮卑伝の汙国である。彼らが渡来してきて、弥生時代を切り開いた。彼らが故国を後にして海に漕ぎ出した理由は、戦国の動乱を逃れるためである。渡来は何度となく繰り返されたが、大きな波は戦国末・秦の動乱期と後漢末の黄巾の乱の時代の二回である。中国の人口は後漢末、五千万人から激減した。加藤徹氏は『貝と羊の中国人』(新潮新書)で西晋初めの人口は一千万人足らずと推測している。『後漢書』鮮卑伝に記録された倭国は滅亡した。海に漕ぎ出した者だけが生き残ったのである。

 渡来人たちは別に日本を目指していたわけではない。彼らは海流に乗って流されてきただけである。北上する対馬海流に流され、対馬の南側の東水道を通った人々は北九州や山陰に上陸し、対馬の北側の西水道(朝鮮海峡)を流された人々は朝鮮半島の南岸地帯に上陸した。日本では渡来人は東水道だけを流されて、北九州、山陰だけに上陸したようにみなされているが、対馬海流は東水道だけを流れているわけではない。数は少なくとも、西水道(朝鮮海峡)側に流された人たちもいたはずである。『三国志』や『後漢書』の韓伝などが馬韓や弁辰と境を接して南に倭人が住んでいた事実を記録しているのはこの理由による。事実は単純である。

 本書は西水道(朝鮮海峡)側に流されて朝鮮半島の南岸地帯に上陸した渡来人たちのその後をたどったものである。朝鮮人の最古の記録『三国史記』が建国の初期から倭人との闘争を記録しているのは、倭人の侵略性を非難するために仕組まれた捏造ではない。また、鴨緑江の北岸に高句麗により巨大な石碑が建てられて、倭人との戦いに勝利したことが記録されたのも、彼らの虚言癖に由来するものではないのである。馬韓、辰韓と境を接して倭人が住んでいたからこそ、何百年もの永き間にわたる倭人との闘争の記録が残されたのである。

 彼ら渡来人の系譜が後漢の安帝に朝貢した倭国王の帥升であり、宋に朝貢した倭の五王である。『三国史記』に記録が残る倭人、広開土王碑に記録された倭人は、朝鮮半島の南岸地帯に上陸した倭人の末裔である。大和朝廷とは関係がないから、倭の五王と大和の天皇は、名前が違って、系統が違い、在位年数が違うのである。

 では、朝鮮半島の南端に「倭韓」つまり倭国があったという前提にどれほどの信憑性が認められるか、以下基本的事実の確認から始めたい。

コメント(18)

私は、「ヤマト王権」残像 と銘打って古代「邪馬台国」のミッシングリンクを究明してきています。その第十九卷まで書き綴っています。倭韓人という半島にいた流民が列島に流れ着いて王権を打ち立てた!という論拠はかなり信憑性があると信じたい。しかし、果たしてそうだろうか?、なるほど先進文化である青銅・鉄器文化を持ち込んで列島に住む縄文人をなぎ倒してテリトリーをつくって膨張していったとするシナリオは簡単にはうなづけないのです。なぜなら流民は所詮流民であるのです。差別して云っているわけではありません。縄文人は列島で16000年を経年した逞しい民です。縄文人が少数流民を吸収して文化も積極的に併呑していって倭人のイメージができた。私は、そういう縄文人をもっとクローズアップしなくてはならない、弥生人というブランドがもし有とすればそのベースに縄文16000年が呑み込んでつくったバイタリティーであると信じたい。倭韓人が日本のベースにあるなどというイメージ付けは私は反対である。

お問い合わせありがとうございます。
倭韓からの渡来人が在来の縄文人を駆逐して日本を建国したというのが小生の意見と思われているようですが、誤解です。
当時は国境がありませんので、倭韓からの渡来人が九州に上陸するのも、九州から本州に渡来するのも、同じ意味合いです。倭人同士の争いです。
前作では、中国大陸にも新石器時代以来の縄文人(Y染色体のD系統)が少数ながら残っていて、歴史時代になると、周りの中国人から「治めやすい東夷」として識別されており、渡来人にも「縄文系渡来人」がいたという説を述べています。弥生系渡来人と縄文系渡来人が九州北部と山陰地方に上陸して、在来の縄文人と混血して、現在の日本人(Y染色体の弥生系が60%、縄文系が40%)になったという主旨です。

朝鮮半島南部にも海からの渡来人が、目からうろこです。
DNA調査によれば、縄文も混血ミックスとのこと、日本列島で人類は発生していないということです。

「目からうろこ」とのコメントはうれしい評価です。守るべき師説がないから、自由に(既成から外れた、つまり、非常識な)発想ができるとご理解ください。
「日本列島で人類は発生していない」という点は、縄文人の優秀さを強調する人が多いという印象があり、噛みしめてほしい点です。日本人も、アフリカから流れてきた人類の成れの果てです。日本人の気高さ(あるいは、変態さ)は、そんな事実には左右されないのです。

拝啓、「日本のルーツ倭韓」を大変興味深く読ませていただきました。「倭の五王」に関しては「応神天皇」などを当てる諸説が多数あり、大和朝廷の天皇(大君)で、中国に使節を送った者と思ってはいますが、渡来人が「倭の五王」=天皇(大君)のルーツか、(個人的には天皇(大君)のルーツには大陸や朝鮮半島の影や影響が色濃いと思うものの、)断言できる根拠を持ち合わせていません。一方、ストレートに共感できたのは、(自分自身も含めて)「「倭」とは現在の日本人のルーツ」という認識がしみついていますが、貴説のとおり、東シナ海を取り囲む、北部九州や山陰、壱岐対馬・五島、朝鮮半島沿岸や済州島、中国の沿岸に広く居住し、交易活動(時には海賊行為)に活発に動いていた人々を指したのではないかと思っています。 これはその後、15世紀頃の「倭寇の海賊行為」と問題にされた時代まで状況は変わらず、続いていたのではないでしょうか。今で言う「国境」概念を超えて生きていた人々のことだと改めて感じました。 なお、一つだけ気になったのは、今から二千年くらい前の時期に、果して文面にある「王権」「国」というレベルのものがあったのか。大きな集落の集合体、コミュニティ連合体レベルだったのではないかと思います。 自分も含めて、どうしても現代の感覚での「王権」「国」という見方をしてしまいがちで反省しきりです。 

丁寧に読んでいただき、好意的なコメントに素直に喜んでいます(アマゾンでの酷評に懲りていたので)。
「倭の五王」=天皇(大君)のルーツか、という点は、まったくの否定はしませんが、両者にそれほど強いつながりがあるわけではなく、倭の五王の一族の流れ者という程度の意味とご理解いただきたい。神武は事代主の神の娘(現地人の娘)に婿入りしているのです。
「今から二千年くらい前の時期に、果たして文面にある「王権」「国」というレベルのものがあったのか」という疑念を持たれたということですが、びっくりです。わたしも同じ認識のつもりでいたのですが、「「分かれて百余の国をつくり」とある国は自然地形によって作られた村程度の大きさの国であったと思われる」(1章)という表記では、意図が十分に伝わらなかったということでしょうか。国家を重視するわたしの趣向が滲み出ていたのか、わたしも反省しきりです。わたしの真意は、倭人の社会は統一王権ではなく、「五世紀の終わりになっても、状況にそれほどの変化はない。雄略の時代は豪族連合政権なのである」(5章)という点です。

人が、移住すると同じ地名を付けるのが、世界的に共通しています。米国では、ニューヨーク、ニュージャージーなど英国からの移住者が、故郷の地名を付けています。日本でも中国や韓国と似た地名が、西日本各地にあります。熊本県に泗水町、新潟県、福井県は、越前、越後、と昔は言いました。燕市も昔、中国にあった国と関係があると思います。その他百済川、百済神社などがあります。数千年前に戦乱を逃れた日本人のルーツになる人々が、 中国や韓国から移住して故郷の地名をつけたのではないかと思います。近代でも明治期に、本州から北海道に移住した人が、元の故郷の地名を付けています。北広島市、伊達市、札幌市の白石区などあります。ここのHPの日本人のルーツの説に賛同します。

小生も前作で汙が倭の字に置き換えられたとして、「地名は、和銅六年の詔によって好字に変えられても音は変化しなかったように、変化に対して抵抗力が強い」、札幌、稚内などはウタリ(アイヌ)の発音が残されていると説明していました。しかし、小著を寄贈した小南一郎先生から手紙をいただき、「音韻を用いれば結びつかない字はないとされます」として、「具体的な出土物で論証する必要があります」と諭された経緯があります。いつか、漢代の泗水国の遺跡が発掘されて、于を記録した課税の木簡などが発見されることを期待するところです。

戦後、任那が否定されていますが、名称はともかく伽耶国に多くの倭人は住んでいたことは確かでしょう。百済との蘇我氏の交流もあります。ルーツは揚子江域だと思いますが、南朝鮮・九州の双方に居住していたと思います。前方後円墳の分布でも(国内の方が早いようですが)共通しています。私は日本語の起源についても関心があります。韓国語とは文法が似ていますが起源は違うように思います。如何でしょうか?

朝鮮半島南端に渡来倭人が住み着いたのは、小生も事実だと思います。『隋書』百済伝の記録によると、当時はまだ混血していなくて、中国人も倭人も韓人も住み分けていましたが、その後は混血したようです。つまり倭人は消滅しました。
韓国語と日本語は、語順の問題といい、発音の問題といい、起原は同じだとしても、『日本書紀』によると、新羅とは通訳が付き、百済とは相手の言葉を「韓語」と区別するなど、当時すでに異質性が強く意識されていました。
今上陛下は百済の王族との政略結婚の例をあげておられますが、陛下の意図は推察されるだけでわれわれの理解が及ぶものではないので、少なくとも日鮮同祖論に流されないような最低限の注意は必要です。

最新の分子人類額、ハプログループの研究によれば、日本人の基調DNAはD2です。アイヌ人はD2が90%。内地日本人は40%を示します。このDグループは、6万年前にアフリカを旅立ち、インドのベンガルを通過して東南アジアを通り、3万数千年前に揚子江沿岸に到達しました。このグループは、その後、大陸のOグループ(漢族?)の圧迫を受けて四散しました。東に海を出て日本列島に至ったのが倭人(縄文人)です。3万年前ということです。南に向かったのがマヤ族やべトナム人。西に散ったのがチベット人と考えられます。漢族と朝鮮族は基調はOグループであり、倭人とは人種が違います。倭人は太古の昔より列島に暮らしを育んできたのです。倭韓について考えるなら、朝鮮族に僅かな比率でDのDNAを残す人たちがおり、全羅道が比率が高い。このことは明らかに倭人が海を越え朝鮮半島の南部に進出していたと考えるのが合理的です。恐らく百済王朝は日系の王朝であったと思えます。新羅も四代王脱解は倭人であり、倭国の北限として半島に基礎を築いていたのでしょう。

小生も前作『日本人のルーツ汙国』で「東夷がまわりの中国人と違って見えた訳」として、D2系統の重要性を説明しています。桜泰匡さんの説の根拠も崎谷満氏の『DNAが解き明かす日本人の系譜』等ではないでしょうか?
ただ、「倭人が海を越え朝鮮半島の南部に進出していたと考えるのが合理的です。恐らく百済王朝は日系の王朝であったと思えます」とある点は、小生とは意見が違います。大和王朝、あるいは九州の地方王権が朝鮮半島に進出したのではなく、渡来した倭人が朝鮮半島や北九州・山口に同時に上陸したというのが小生の見方です。そして、朝鮮半島の倭人と韓人は最初からお互いの異質性を強く意識して敵対していた(あるいは、ときに人質を送って同盟していた)という史実があり、わかりやすく言うと、後のイングランドとアイルランドのような関係であったというのが小生の理解です。
「朝鮮族に僅かな比率でDのDNAを残す人たちがおり、全羅道が比率が高い」とあるのは、はじめて知ることで、知りたがり屋の習性で、引用元の資料に興味があるので書名を教えていただければうれしいです。

 日本神話、古代史にも興味があるだけの者ですが、偶然このページを発見し、楽しい記事を読ませていただき感謝します。
 人類の起源がほんとにアフリカか、たまたま発見された人類遺体の一番古いのがアフリカにあったというだけではないのか、分からないなりに疑念を持っていますが、
 よく問われる、「文化や血統のルーツ」についても、学問を好む人には、なぜか、「自分のふるさとが、どこか別の場所にある」という思い込みがあり、共通する要素を別の地に見つけた場合、無条件でそちらが「上流」と考えてしまう傾向があるのでは? と感じています。
 
 文化や血統なんて昔も今も混ぜ混ぜなのですが、個人的には、「倭人」は 日本から移住した人々、という説のほうが、自然なのではないか、と思います。 

小生のホームページには珍しい、20代の若い読者とお見受けしました。「分からないなりに疑念を持っています」という、文面の遠慮深さに好感して強い言葉は控えますが、図書館で初歩の解説書を探すか、書店で初歩の関連書を求めて読んでみられることを勧めます。知らないことを知ることは大きな喜びです。何に付け、ひとつ知ると、いかに知らない世界が広がっているかが実感され、小生のような老体でも青年のような知的好奇心に突き動かされるのです。あなたが読書する習慣を身につけられ、豊かな精神生活を送られることを希望しています。これまでとはまったく違う世界が開けてくるはずです。

久し振りにお邪魔しました。
柴田文明さんのご指摘通り、最初から倭人が半島に上陸したという考えも有力だと思います。済州島あたりも宗像三姉妹の伝説とよく似た神話があり、もともと倭人が起こりではないかと思えます。そう考えれば当然半島に流れつかない訳がない。同感です。
 依頼のありました朝鮮半島におけるD2遺伝子の分布図ですが、調べましたが保存してありませんでした。時間をいただければ見つけ出して御送付いたしたいと思います。

朝鮮半島におけるD2遺伝子の分布図は保存してなかったということで残念です。ご連絡いただけただけでも感謝ですが、探して送ってくださるというお申し出に恐縮しています。
D1遺伝子、D3遺伝子はチベットに高頻度でみられますが、D2遺伝子は日本列島に孤立して分布している遺伝子で、それが朝鮮半島にも分布しているとなると、両者に強い関連性があることになります。アフリカ大陸からアンダマン諸島経由で、中国大陸に渡ってきたD遺伝子は中国では絶えてしまいました。朝鮮半島における分布が南部だけであるとなれば、D2遺伝子が朝鮮半島経由で日本列島に渡来したのではなく、海を渡ってきた東夷が北九州、山口だけでなく、朝鮮半島南端にも上陸したとする小生の仮説を補強してくれることになりそうで、期待しています。

お久し振りです。
時間がかかって申し訳ありませんでした。偶然、資料を見つけました。

『 Y染色体ハプログループの分布 (東アジア)ウィキペディア 』

このタイトルを入力して検索してみてください。東アジア各国のY-DNAの分析がしてあり、
その中で Y-DNA、Dに関する朝鮮民族の半島分布の資料も載っています。全羅道がやはりもっとも多く3.3%でした。最後に民族全体の総括表もあり1.6%となっております。

ご連絡ありがとうございます。
Y染色体のD系統が、朝鮮半島の全羅道(百済)でサンプル90人中3人、慶尚道(新羅)で84人中2人確認されたという報告です。予想していた以上に低い数字であるだけでなく、日本人に限定されるD2系統ではなくD*系統であり、百済とは一部の政略結婚以外に混血はなかったのかと疑われます。昔の加羅地域で調査がなされれば10%を超える数字が出てくるかもしれません。今後の研究を待ちたいと思います。
「Y染色D系統の分布の謎」と題する、中国系研究者の共同研究を紹介したサイトは興味深いものがあります。25,000年前から30,000年前にアジア全域に勢力を拡大した新興のO系統に駆逐されて、山岳地帯のチベット、アンダマン諸島と日本列島のみにD系統が濃密に生き残ったとする仮説です(他の地域でもD系統が生き残ってはいるが、5%未満)。D2系統(縄文人)の推定分岐年代は37,678±2,216年前で、最終氷期の海面が低下した時代に、日本列島に到達していたのです。

コメントする