本書の触り 1

陳寿の仕掛けは恐るべし

 ()()()の業績として顕彰すべき卑弥呼朝貢の最初の記録が落ちている。魏の曹丕や呉の孫権が帝位についた際の勧進文が記録されなかったように、景初二年一二月の卑弥呼の朝貢は本紀に記録されなかった。載せられたのは別人の正始四年の朝貢で、中途半端な、含みを持たせた記事である。後に続く史家は例外なく陳寿の共犯者となった。倭国王の名前が記録されたほかの史書と読み比べてみることができた史家たちには、陳寿の意図が見えたのであろう。

 明記すれば、史家とはそのように裏があるものかと、時の皇帝から疑いの目で見られることになる。『三国志』の記事を引用しながら、何の注釈もつけずに、『隋書』に至るまでみな例外なく邪馬壹国を邪馬臺国に改めている。当時まだ残っていたほかの史書には邪馬臺国と記録されていたからである。『三国志』の邪馬壹国を邪馬臺国に改めることによって、陳寿の意図を了解したという符丁になっていて、「時人その善く事を叙し、良史の才あるを称う」という評価にも繋がっているのである。

 『隋書』はさらに「ここが、すなわち『魏志』(『三国志』倭人伝)にいう「邪馬臺」である」と書かない約束の注釈を付けている。わたしにはわかっているんですよ、とアピールしたい気持ちを抑えられなかったのである。『隋書』の経籍志には陳寿撰、裴松之注の『三国志』六五巻のほか、王沈撰の『魏書』、何常侍撰の『論三国志』、徐衆撰の『三国志評』が記録されている。ほかにも孫盛撰『魏氏春秋』、陰澹撰『魏紀』、孔舒元撰『漢魏春秋』、『魏武本紀』、孔衍撰『魏尚書』、郭頒撰『魏晋世語』、『魏末伝』、梁祚撰『魏国統』、魚豢撰『典略』(『魏略』)、そして張華撰『博物志』一〇巻などが隋の書庫には残されていた。これらの書には「邪馬臺」と記録されていたと考えられる。これらの書は王朝滅亡の度に失われて、次第に事実は失われた。

 さらに推測を重ねると、司馬懿の懿の字はふたつに分けられて「壹」と放恣、驕恣の「恣」になる。壹は壱(一)と同意である。「りっぱな行い」という意味の懿が「壹に放恣」であるという悪い意味に変わってしまう。陳寿が邪馬臺国を邪馬壹国に改めた直接的な理由がここにあったのではないかと疑われる。邪馬壹国という表記をみるたびに、懿という字の裏の意味、「壹に放恣」が思い出されるのである。表面では司馬懿の諱を避けて司馬宣王と呼んでいるのに、実は諱を避けるという礼儀を守っていないどころか、司馬懿の諱をおもちゃにして笑いものにしているのである。疑いをかけられれば、誅殺を免れることができない、たいへん危険なことば遊びである。

 この(せき)()ということば遊びは『後漢書』五行志にも記録がある。董卓が()太后を殺し献帝を擁立した後漢末期、京都(洛陽)で「千里草、何青青、十日卜、不得生」(千里の草原、何と青々としていることか、だけど十日間占えば、生きてはおられない)という意味不明の童謡が流行ったという。千里草で董になり、十日卜で卓となるので、董卓は勢力を増しているが、生きてはおられないという謎解きになる。

 陳寿も『三国志』呉書の()(えん)伝で、析字の記事を記録している。魏延が頭に角が生える夢をみて、夢占いの(ちょう)(ちょく)に質問すると、趙直は「そもそも()(りん)は角を持っておりますが用いることはありません。これは、戦わずして賊軍が自壊する象徴であります」とごまかしたが、魏延が退座すると、「角の字体は、刀の下に用がある。頭の上に刀を用いるのだから、その不吉さは大変なものだ」といったという。こういう記事を載せているのだから、陳寿は析字に関心があったはずである。析字は当時の知識人の常識であったから、司馬懿の諱を析字して「壹に恣」の謎かけをする危険を冒したと解釈する所以である。

 そもそも陳寿は『三国志』に司馬懿の伝を立てていないのである。ライバルの諸葛(しょかつ)(りょう)(こう)(めい))だけ当選して、司馬懿の落選はありえない。疑いをかけられたときに、陳寿はどう言い訳をするつもりであったのだろう。晋朝の建国の祖である司馬懿の記事は不真面目な雰囲気が全体をおおっているのである。


武帝を司馬炎と呼び捨て

 陳寿が司馬懿をどう呼んでいるかが気になってきた。ちくま学芸文庫の人名索引を頼りに調べてみると、司馬宣王が九八回、大尉が六回、司馬懿が五回、大傅(たいでん)が三回など、合計一一九回である。司馬懿の表記が現れる五回を個別にみていくことにする。ひとつは明帝紀のなかで明帝の言葉を引用したものであり、皇帝が臣下の名をよんでも問題はない。曹真伝のなかにも出てくるが、これは翻訳の便宜上のもので原文にはない。もうひとつは李厳伝のなかで、司馬懿と対決している蜀の諸葛亮(孔明)が後主に上表したものをそのまま記載したものである。諸葛(らく)伝の場合も敵国を論じた文のなかに出てくるまま記載したもので、地の文ではない。

 しかし、後主伝のなかでは地の文で二回、建興八年と九年の記事で司馬懿と名を記している。次の諸葛亮伝になると司馬宣王に戻るところからすると、蜀の後主を尊ぶ気持ちが司馬懿の扱いを下げた理由であるものと思われる。ちなみに、先主伝において地の文で曹操は曹公と記されている。裴松之の注においては、司馬宣王が一二五回、大傅が二八回、司馬懿が二四回、司馬仲達が五回、その他九回となっている。

 司馬師の場合は、司馬景王が二三回、大将軍が六回など、合計三〇回で、司馬師と呼んだ例はない。裴松之の注においては、司馬景王が三七回、司馬師が二九回、大将軍が一八回など、合計八五回である。司馬昭の場合は、司馬文王が五一回、大将軍が一二回など、合計七八回で、司馬昭と呼んだ例もない。裴松之の注においては、司馬文王が六一回、大将軍が一六回、司馬昭が五回など、合計八六回である。

 ところが、司馬(えん)の場合は、司馬炎が五回だけで、武帝と呼んだ例がないのである。世祖も相国もない。裴松之の注においては、武帝が三五回、世祖が四回、司馬炎が一回、相国が一回と、武帝が一番多いのに比べると、異様である。

 『礼記』には、「『詩経』や『書経』を読むとか、または文章の読み書きをするとか、そうしたおりには父母の名も忌まない」とあるので、史書に本名を記すことに問題はない。陳寿は『三国志』の武帝紀で曹操を「姓は曹、諱は操、字は孟徳」と記しているが、名を記したのは最初だけでその後は太祖で通している。『宋書』、『隋書』、陳寿の後に続く多くの史官は陳寿のこの表記の仕方に倣っている。

 一方、陳寿とは立場が違う笵曄は『後漢書』の地の文で「魏王曹操薨。子()襲位」と名を記している。『晋書』も次の宋朝を開いた(りゅう)(ゆう)の名を呼んで、武帝とは一度も記していない。『後漢書』は宋代、『晋書』は唐代の成立で、何代も前の滅んでしまった皇帝と現王朝にはなんの繋がりもないから、これに不思議はない。宋代の裴松之もこの例にあたる。忠誠を誓うのは現王朝だけですというアピールにもなっている。

 問題はその書が扱っている時代を継ぐ、当代の皇帝をどう表現しているかということである。つまり現王朝の皇帝をどう呼んでいるかである。

 『宋書』は次代の斉(南斉(なんせい))の成立であるから、斉朝を開く(しょう)(どう)(せい)を斉王と記録している。唐代に成立する『隋書』も次代の皇帝の()(えん)を唐王と呼んで名を避けている。避諱の重要さを考えれば、これが当然である。『史記』、『漢書』は漢の高祖をはじめ各帝の諱を避けて名を記録さえしていないのである。魏の後の晋代に書かれながら、自分が仕える晋朝の初代の皇帝の名を呼び捨てにする陳寿の書き方が非常識で、本来ならありえないことなのである。


『三国志』が完成した年

 杉本憲司氏らは『三国志』の成立を「晋が天下を統一したころ(二八〇〔太康元〕年、寿四十四歳)、三国の歴史を整理して、『魏書』三〇巻、『蜀書』一五巻、『呉書』二〇巻を書いて、『三国志』と称した」としている(『日本の古代』1)。武安隆氏は二八九(太康一〇)年としている(『中国人の日本研究史』六興出版)。司馬炎の死は二九〇(永熈元年)年であるから、いずれにしても司馬炎の在位中である。

 司馬氏に仕えないなどという不忠を理由のひとつにして、司馬昭に処刑された(けい)(こう)(竹林の七賢人のひとり)の運命が陳寿にも待っていたかもしれない。司馬炎が生きていれば、自分を呼び捨てにする陳寿の不忠を許しておいたはずがないし、周りの者も黙っていたはずがない。陳寿は誅殺され、陳寿にとって命よりも大事な『三国志』もこの世から抹殺されたことであろう。すべてを破滅させるような非常識なことを陳寿がしているのに、現代の研究者は不思議に思わないらしく、わたしが読んだ限りでは誰も問題にしていない。

 そして、不思議に思わなかったのは、『三国志』を正史に選んだ晋代の知識人も注をつけた裴松之も同じである。誰も問題にしていないのである。陳寿の非常識な態度を正当と認める何かが、当時の知識人に共有されていたとしか考えられない。その根拠は知識人の行動規範を記した『礼記』のなかに見いだされる。


 諸侯については、生存中にその名を(他人が)呼ぶことはない。ただし、君子は悪事をなす者には好意を持たないから、諸侯にして(政治を誤って)国を失えば、その名をさして責め、また諸侯が同姓の国を滅ぼしたときは、その名をさして責める。


 司馬炎の死後、皇太子の司馬(ちゅう)が即位する。暗愚を危惧されていた司馬衷は、外戚の(よう)駿(しゅん)が全権を掌握したために、名だけの存在となる。多くの朝臣が心配していたことが起こったのである。張華は二八二年から二八七年にかけて、持節・都督幽州諸軍事・領護烏桓校尉・安北将軍として故郷の幽州に赴任した。上司の荀勗(じゅんきょく)に嫌われたためと、暗愚な皇太子司馬衷より、朝臣の期待を集めた、武帝の弟の斉王(ゆう)を後継者とすべきことを進言して武帝の不興を買ったためとされる。

 また、『世説新語』の言語篇によると、司馬炎が即位して(さく)(おみくじ)を引いたところ「一」が出て、王朝は一代のみと解釈されて司馬炎が不機嫌になった事件が起こっている。いろいろと進言がなされ、おみくじの警告も出ていたのに、一代で国を失った責めを司馬炎は受けなければならない。

 さらに先に記したように、『晋書』陳寿伝によると、陳寿の『三国志』を読んだ張華は上機嫌の様子で、『晋書』の編纂も陳寿にまかせようと言ったと伝えられている。そのために、張華は陳寿を中書郎にしようとしたが、政敵の荀勗に反対されて実現しなかった。『晋書』の職官志によると、元康二年(二九二)、詔勅により中書著作は秘書著作に改められている。張華が陳寿を中書郎にしようとしたからには、それは元康二年の詔勅以前のはずである。

 張華が、楊駿を打倒して権力を握った()皇后に取り立てられたのは、元康元年(二九一)である。楊駿は一年で殺されたが、賈皇后が取って代わっただけで、司馬衷はあいかわらず無視されている。張華が『晋書』の編纂を始めると発言したからには、晋朝はもう滅んだも同然と張華が考えていたということを意味する。陳寿の認識と符合する。

 陳寿は司馬炎在位中『三国志』を書き続けていた。王粛伝の中で孫叔然という人物が登場する。裴松之は、晋の武帝(司馬炎)と同名であるため、その字を称呼としたと解説しているから、孫炎が本名であったのであろう。王粛伝を書いているこの時点では陳寿は司馬炎の名を避けていたのである。しかし、司馬炎の失政で国を失った時点で、司馬炎の名をさして責める方針に変わり、本紀の表記を改めた。このとき孫炎のことは思い出さなかったので孫叔然のまま残ったのであろう。

 そして表記を改めたのは司馬炎の死後、事態の帰趨が決した後のことであるから、陳寿が『三国志』を完成したのは永熈元年(二九〇)の司馬炎の死以降、元康二年(二九二)の詔勅以前、元康元年(二九一)のことであったとみるのが自然である。

 『晋書』の王沈伝によると、王沈も荀顗(じゅんぎ)(げん)(せき)とともに『魏書』を著したが、権力者司馬氏の意向にそったその記述は、「陳寿の実録」に及ばぬと当時評されたという。原文は「多為時諱」(多いに時諱を為し)で、時流に阿る諱を多用したというのである。この評価は先に引用した張昭伝にある『風俗通』の一節、「直接の恩愛関係が断絶しているので、名前が重なるかどうかは問題にしなくてよいのである。ましてや旧君五十六方についてはなおさらのことである」を想起させる。旧君のそれぞれについて避諱をして地の文で使用する文字を置き変えていたら、文章はズタズタになり理解できないものになったものと思われる。「陳寿の実録」とあるのは、陳寿は司馬懿の長兄の司馬朗や弟の司馬()の実名を記録して避諱をしなかったからである。

 また『晋書』の陳寿伝によると、当時の一流文人で司馬氏一族とも親戚関係にあった夏侯(たん)も『魏書』を著していたが、陳寿の作をみて自らの作を壊して筆を折ったという。夏侯湛は元康元年に死亡しているから、元康元年以前の話である。夏侯湛が陳寿の作をみる気になったのは、張華などの評判を聞き及んだためであろう。夏侯湛は、憚るところなく司馬炎の名をさして責める陳寿の作に衝撃を受け、自らの作も司馬氏の意向にそったものであることを自覚して気落ちしたものと思われる。夏侯湛は時代が変わりつつあることを悟ったのであろう。これは文章の優劣のレベルの話ではなく、世間では「良史の才」の問題であるとされたからである。

 司馬炎は国を失ったからその名を呼び捨てにしても、礼に適っているとして陳寿は同時代人から非難されてはいない。しかし陳寿にとってもっとも敵愾心を抱かせる司馬懿に、司馬炎のような不始末はない。陳寿の祖国を滅ぼした司馬懿を公然と呼び捨てにすることはできないのである。司馬懿の業績を顕彰しているかのように見せかける記述は、「支配者司馬氏に気を配りながら、さしさわりのない記事と表現をうまく配合し重ねる」ことによって、はじめて司馬懿を貶める結果に結びついているのである。

コメントする