本書の触り 2

短里説がはらむ問題

 『「邪馬台国」はなかった』は邪馬臺国ではなく邪馬壹国であったという点と、『三国志』の里数は魏晋朝で使用された短里であるという二点が主張の眼目であるようである。前者は私も論じた問題である。邪馬壹国を邪馬臺国と改めた『後漢書』の范曄の誤りを歴代の史官が誰も気づかずに踏襲していたという主張は説得力が弱い。はるか後代の日本人が発見することを、これまでひとりの中国人も気づかなかったことになるからである。後代の重刻本を根拠に、刊行当時の『三国志』『後漢書』その他を読んでいた中国人の記録がすべて間違っていたと結論するのは方法論が誤っている。

 国名の問題はともかく、もう一点の短里説のほうは私にとって重大な問題をはらんでいた。短里とは、魏晋朝で使用された距離の単位だけがそれ以前とこれ以後で使用された距離の単位とは違っていたという意味である。一里は三○○歩(一歩=六尺、一里=一八○○尺)で、周・春秋・戦国時代は四○五メートル、後漢は四一五メートル、魏は四三四メートルとされ、唐から後は一歩=五尺で一里は三六○歩五六○メートルとなり、現代中国になって一歩=五尺で一里は三○○歩五○○メートルとなった。一里が一八○○尺であるという点では古代以来清まで変化がない。

 それが、魏晋朝だけが一里七五~九○メートルであったと古田氏は主張するのである。そもそも七五~九○という一定でない数字がどうして単位の基準になりうるのか不思議である。これは、前記の各代の距離には誤差があって一定ではなかったという問題とは根本的に違うのである。

(中略)

 古田氏はここで夏侯淵が「四千里を反覆すれば」といっているのは「自分たちのいる洛陽から、太祖のいる鄴までの、四千里の距離を使者が往復していれば」という意味であるとしているが、上に引用したように曹操は夏侯淵を長安に駐屯させたのである。古田氏は、「十七年、太祖乃ち(ぎょう)に還る。淵を以て護軍将軍に行はしめ、朱霊・路招等を督して長安に屯せしむ」と引用しているから、朱霊・路招等を長安に駐屯させたと理解しているようであるが、誤解である。曹操は朱霊が袁紹の武将であった過去のためか、数々の武功をあげた朱霊を利用するだけ利用して、最後は于禁に朱霊の軍営をとりあげさせていることからわかるように、朱霊を信用していないのである。重要な長安を朱霊に任せるはずがないのである。武帝紀の建安一六年一二月の記事にもあるように、曹操はその前の年も「安定から帰途につき、夏侯淵を残して長安に駐屯させた」のであり、翌年も当然のように夏侯淵を信用して長安に駐屯させているのである。

 また古田氏はこの記事について片道四千里を往復していればと解釈しているが、夏侯淵は鄴と長安の間は「往復四千里」であるといっているのである。原文は「反覆四千里」である。鄴と長安の間は直線距離で六○○キロメートル、山麓をよけて行軍することになるから二千里(八六○キロメートル)の表記に齟齬はない。

 夏侯淵は韓遂に逃げられた顕親を経由して略陽城(甘粛省天水市の北)を攻撃し、長離の羌族の屯営を襲って焼き払った。韓遂の軍隊に参加していた羌の諸部隊とともに、韓遂は長離救援に赴き、夏侯淵のもくろみどおり両軍は対峙した。夏侯淵の諸将は塹壕を掘って対戦したいと望んだが、夏侯淵は「われわれは千里の彼方から転戦してきている。ここでまたもや陣営や塹壕を作ったりすれば、兵士たちは疲労困憊し、とても長くは持ちこたえられないだろう」と士気を鼓舞して韓遂軍を撃ち破った。略陽に立ちもどり興国を包囲し、高平・屠各を攻撃し、すべてをちりぢりにけちらした。

 古田氏が言うように夏侯淵が洛陽から出陣したとすれば、短里で計算すると「千里の彼方から転戦」してきたとしても千里の距離は七五~九○キロメートルである。洛陽から長安までの距離三○○キロメートルの三分の一にも満たない。長安を通り越した、はるか先にある戦場の略陽城に届かないのである。

 長安から出陣したとしても、短里で千里の距離ではやはり戦場となった略陽、興国までの距離の三分の一に満たない。長安から祁山、略陽まで三○○キロメートル、七○○里である。長離がどこにあったかは不明であるが、興国の近くを流れているのが長離川とある(潭其驤主編『中国歴史地図集』第三冊)から興国の上流にあったのであろう。羌族の住処が略陽からゴビ砂漠の南の万里の長城までの三○○キロメートルの中間にあったとすれば一五○キロメートルで、合わせて四五○キロメートル、約千里になる。「千里の彼方から転戦」してきたとする夏侯淵の言葉と合致することになる。

 『三国志』の里数値をすべて調べ上げたはずの古田氏が、同じ夏侯淵伝の「千里の彼方から転戦」してきたとする記事を見逃しているのはいかにも不可解である。古田氏のいう二定点間の距離が千里以上という条件にもあっているのである。略陽、興国の位置を確認さえしなかったのであろうか。他にも、「西陵から江都にいたるまで、五千七百里」という三嗣主伝の記事や、建業から武昌へやって来るには「水路を二千里も遡らねばならず」という宗室伝の記事があるが、古田氏が取り上げていないのでこれ以上の詮索は無用であろう。

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