本書の触り 4

一二人の将軍のひとりが加羅国王

 これらのことから四三八年に爵号を与えられた一三人のうち、倭隋を除く一二人のうちの何人かが秦韓慕韓の王たちであったと考えられるのである。珍は使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事をただ言葉だけで求めても認められるものでないことは十分理解していたから、実効支配していることを各地の王の名前をあげて示させたのである。百済や新羅は人質を差し出していたから、倭国の保護下にあるという認識であったものと思われる。一度も影響下に置くことができなかった高句麗が外されているのは、倭国の認識を反映している。

 このときは六国諸軍事をみとめられなかったが、珍のあとを継いだ済の使者が遣わされて、ついに四五一年、済に使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事の資格が認められた。しかし安東将軍のままで進号はしなかった。またこのとき、将軍号の内容はわからないが、二三人の爵号の授与を求めて「〔将〕軍・郡〔太守〕に任命」されている。百済が外されたのは宋朝によって四一六年、百済王の()(えい)に使持節・都督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王がすでに認められていたからである。鎮東将軍は済に認められた安東将軍と同じく第三品であるが、一つ格上の将軍号となる。

 大明二年(四五八)、百済王の餘(けい)は宋に使者を派遣し、上表して一一人の文武の高官に対する餘慶自称の官職を認めてほしいと願い出て許されている。右賢王の餘紀が冠軍将軍、左賢王の餘昆と餘暈が征虜将軍、餘都と餘乂が輔国将軍、沐衿と餘爵が龍驤将軍、餘流と糜貴が寧朔将軍、于西と餘婁が建武将軍に任じられている。すべて第三品と第四品である。餘紀ら八人は百済王の同族と思われ、異姓は三人のみである。

 また、『南斉書』の百済国伝によると、百済王の()(たい)は自分が寧朔将軍・面中王に任命している家臣の姐瑾(しゃきん)の功績を大とし、冠軍将軍・都将軍・都漢王に昇進させたいので認めてほしいと願い出ている。さらに、建威将軍・八中侯の餘古は寧朔将軍・阿錯王に、同じく建威将軍の餘歴は龍驤将軍・邁盧王に、広武将軍の餘固は建威将軍・弗斯侯に進号させたいと願い出ている。これらの官職も第三品と第四品である。『南斉書』の百官志が、斉は宋の禅譲を受けたので、偏廃した所はなく重ねて述べないとしているように、一部序列が変わっただけで将軍号の名称に変化はない。

 牟大は別の機会にも、建威将軍・広陽太守に仮に任命している家臣の高達を龍驤将軍・帯方太守に、同じく建威将軍・朝鮮太守の楊茂は建威将軍・広陵太守に、また宣威将軍で参軍の会邁は広武将軍・清河太守に任命したので認めてほしいと願い出ている。先の餘紀らと比べると、また姐瑾らと比べても、太守格の家臣の将軍号はさらに格下である。

 倭国の場合には個人名は倭隋しか確認できないが、一三人の場合はすべて第三品であることからすると、百済の例からみて、王の同族か面中王の姐瑾のような地方の王であった可能性が高い。また二三人の場合は将軍・太守に任命されたという記事からして、倭国王の家臣であった可能性が高い。

 倭王を通して各地の王に爵号が授与されたとするのは、後に宋がほろんで南斉王朝が開かれた四七九年に、六国諸軍事のひとつの加羅国王の()()が遣使朝貢して輔国将軍・本(加羅)国王の官爵を与えられていることからも裏付けられる。ふつう使いを送って朝貢したとしても、初めての朝貢で官爵が認められることはまずない。すでに官爵を認められている他国の王など信用のおける人物の紹介をうけるか、何回も「代々」朝貢の実績を積んでからでないと官爵は認められない。そうでないと、王としての官爵を与えた相手が実は王でもなんでもなく、海賊であったなどという不祥事が発生するおそれがないわけではないからである。中国王朝によって王として認められた者が王になるのであって、実力によって自力で王になれるわけではないとする考え方もあるが、それは建前であって、領地領民を実効支配しているかどうかは重要な目安である。

 審査が厳密であったことは、百済の場合をみれば、自称であっても官爵の進号に飛躍がなく自制的であったことや、珍の官爵も自称の一部しか認められなかったことからも判断できる。

 新羅は五二一年に百済の使者に随伴して初めて南朝の梁に朝貢の使者を送った。しかし梁に官爵を認められることなく、梁はほろんでしまう。北朝の斉に朝貢して翌年官爵を認められるが、それ以後朝貢を重ねた南朝の陳にはとうとう官爵を認められなかった。陳を滅ぼした隋によって官爵を認められたのは五九四年である。加羅国王の荷知が初めての朝貢で官爵を与えられたとは考えがたいのである。史書に登場したのは初めてであっても、すでに加羅国王に輔国将軍の官爵が与えられていたために、前王朝の官爵がそのまま認められたと考えるのが他の例からして自然なのである。つまり四三八年に爵号を与えられた一三人のなかに加羅国王も含まれていたと考えられるのである。

 倭国王武は自らの意気込みを高らかに詠った上表文を提出し、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王を認められた。興まではずっと安東将軍の爵号しか認められなかったが、ついに安東大将軍に進んだのである。しかし、宋は翌年滅亡してしまったために、武はこんな官爵は何の役にもたたないと見限ったようで、以降朝貢していない。『南斉書』の武が鎮東大将軍に進号した記事も、『梁書』の征東将軍に進号した記事も、新王朝が前王朝を継いだ正統王朝であるとする形を整えるための形式的除正である。その記事に具体的内容はない。

 武が朝貢しなくなったことは新王朝の権威が認められていないことになり、道徳的権威がまわりに及ばなくなっていることを意味する。新王朝にとっては小さくない問題である。武が朝貢しなくなった間隙をついて加羅国王が朝貢してきてくれたことが南斉王朝にはよほどうれしかったようで、倭国王の六国諸軍事のなかのひとつにすぎない小国加羅の朝貢を歓迎する記録が残されたのである。

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