本書の触り 6

後宮に六、七百人の侍女をもつ中年男

 『隋書』は次のような聞き取り記事を載せている。岡田氏がいうように『日本書紀』の記事と合わないのである。


 俀王の妻は鶏弥(きみ)といい、後宮には侍女が六、七百人いる。太子を和歌弥多弗利(わかみたふり)と名づけている。


 門脇禎二氏は太子の名前を読み解くことにより、推古女帝はまだ即位していなくて聖徳太子が大王であったと説明する。「和歌」は「若」「稚」で若々しい、「弥」は美・御などの美称である。そして「多弗利」の「多」は「田」の音を当てたもので、『日本書紀』の古訓でしばしば「村」にフリとかフルと付けられているところから、「多弗利」は「田村」となる。「和歌弥多弗利」は「若(稚)々しくて立派な田村」王子、つまり次の舒明天皇につながるというわけである。さらに伊勢大神の斎王であった酢香手(すかて)(ひめ)王女が、聖徳太子が死んだ六二二年に伊勢から帰ってきたとする『日本書紀』の割注の記事に注目する。女帝は巫女的神性をもちながら同時に政治もしたという性格から、初期の斎王は男帝の時しか伊勢に行かなかったのである。推古女帝が五九二年に即位していたのであれば、斎王は伊勢から帰ってきていたはずであるが、酢香手姫王女は用明天皇の即位以来三七年間伊勢に留まり続け、聖徳太子が死んだ年に伊勢から帰ってきたのである。この年に推古女帝が即位したからである(『古代豪族と朝鮮』新人物往来社)。

 しかし、五七四年生まれの聖徳太子はこのとき二六歳で、舒明は七歳である。後宮に六、七百人の侍女を置くこの油ぎった中年男のイメージと聖徳太子の伝説は結びつかない。また、田島公氏は推古女帝は大門の奥にある大殿にいて、朝庭において「儀式を主宰しているように見えた人物、たとえば蘇我馬子や(うまや)()皇子(聖徳太子)を倭国王と見誤ったのではなかろうか」(『日本の古代』7「まつりごとの展開」中央公論社)としているが、『隋書』の記述と合わない。俀王は裴世清と会見して面談しているし、饗宴を催してもてなしている。推古が男装していたとしても、裴世清が気付かなかったはずはない。さらに、「隋使が朝廷に参ってからの経緯は、『日本書紀』と『隋書』ではかなり相違があり、『隋書』には使者の行動を美化しているところがみうけられる」としているが、『日本書紀』は自分史であり、『隋書』は後の王朝が作った史書であることを忘れてはならない。

 蘇我馬子の実際の行動を記録で見てみる。馬子は推古一八年(六一〇)、新羅・任那の使人が京に着くと、飾り馬で迎え、先導役を遣わして客を朝廷に迎えた。


 彼らがともに客人を導いて南の門から入り、庭上に立つと、大伴(おおともの)(くいの)(むらじ)・蘇我豊浦蝦夷臣(馬子の子)・坂本糠手(あらて)臣・阿倍(あへの)鳥子(とりこ)臣がともに座を立ち、進み出て庭に伏した。両国の客人がそれぞれ再拝し、使の趣旨を奏上すると、この四人の大夫は起立し、進んで大臣(蘇我馬子)にそれを申し上げた。大臣は座からはなれ、政庁の前に立ってそれを聞いた。やがて客人たちに、それぞれ祿を賜った。乙巳(十七日)に、使人らを朝廷で饗応した。


 推古天皇の影も形もない。『隋書』の伝える俀王は、『日本書紀』のこの記事からすると蘇我馬子のことであったと考えられる。推古一六年、隋の使者を朝廷に迎えたときの様子もこれと同じであったと思われる。「使の主裴世清は、みずから国書を捧げ持ち、両度再拝(二拝を重ねて行なう)し、使の趣旨を言上」すると、「阿倍臣(鳥)が進み出てその国書を受け取り、大伴(くい)連が迎え出て国書を受け、大門の前の机の上に置いて天皇に奏上し、終わって退出した」とある。『隋書』によると、俀王は男であったから推古であったはずはなく、このときも新羅・任那の使人の記事と同じく、「双頭の鷲の如き観」の蘇我馬子が外交儀式を主宰していたものと思われる。『隋書』と読み比べられることを意識しながら、『日本書紀』編纂の趣旨にあうようにその辺をあいまいにして書くと、あのような記事にならざるをえない。新羅・任那の使人の記事は他の史書と読み比べられて「相違」があると指摘される心配がないから記録のままに記されたが、本来ならこの記事も大臣を天皇と書き替えておくべきであった。あるいは、編者に含むところがあって意図的に書き換えなかったのかもしれない。

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