本書の触り 3

新羅国境まで徒歩二○時間の倭王の都

 堤上の頭の中にある地図によると、朝の八時に発見されてしまったら、どうしても国境まで四時間分の距離が残ってしまうのである。命をかけて稼いだ四時間の意味が倭王の都の位置を教えているのである。

 前の晩の一○時から翌日の真昼まで一四時間、そこからさらに六時間、合計二○時間が倭王の都から新羅国境まで歩いてかかる時間なのである。時速五キロで計算すると、新羅国境から一○○キロの位置に倭王の都があることになる。そしてそれは七五キロより近くはないのである。国境が七五キロより近かったのなら、堤上は死なずにすんだはずである。朝の八時に逃亡が発見されたとしても、七五キロ先に国境があれば二人は無事に到達できていたからである。

 人間の歩く速さを五キロ、馬の走る速さを一五キロに仮定した話だから、多少のズレの余地はある。人間の歩く速さを四キロで計算すれば二○時間で八○キロ、六キロで計算すれば一二○キロになる。

 佐伯有清氏の訳(『三国史記倭人伝』岩波文庫)では『三国遺事』のこの部分は、逃亡が発見されたのは真昼ではなく日が暮れた後(及乎日呉)である。日が暮れるまで逃亡が発見されないというのも話がのどかすぎる気もするが、前日の狩りで疲れて日が暮れるまで起きられないという話が信用されたとすると、美海はよほどの虚弱体質と見られていたことになる。普通の人なみに時速五キロで遅れずに歩き続けることはできないかもしれないし、たびたび休憩をはさまなければならなくなったことであろう。虚弱体質の美海は前夜の一○時から翌日夕方の五時まで休まずに時速四キロで歩き続けて、二五時間かけてようやく一○○キロ進んだことになる。

 時間の計算にしても、二、三時間の幅の変動はありうる。しかし大勢は動かない。馬の走る速さの仮定は恣意的な面もあるが、人の歩く速さは余り動く余地がない。新羅国境から「曲がりくねった狭い道」を辿って一○○キロの位置(直線距離では七○キロ程)、誤差をみても七五キロから一二五キロの範囲が倭王の都があった位置である。そしてその都は、海岸線から歩いて程ない距離、遠くても五キロ以内にあったものと思われる。

 具体的な地名や距離が出てこないとはいえ、本来なら堤上の話は史書から消されていたはずである。余りに危険な匂いがする。それが記録に残ったのは、堤上の話が周苛の忠烈に劣るものではないと評された重大事件であったからである。『三国史記』の編者たちが典拠とした史書を残した者たちにとっても、忠臣堤上の事件はゴシック体の活字で記録したいほどの美談であり、どうしても記録から落とすわけにはいかなかったのである。

 王子も堤上も無事に帰国できたなら、この話はインパクトがなくなり、伝承力も弱くなったはずである。堤上が身を捨てて王子を救ったことが話の核心にあり、リアリティがあって、元になる事実があったから後代まで伝承されたのである。

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