本書の触り 4

東夷とまわりの中国人が違ってみえた訳

 中国人は「夷狄と暮らすことは人間をやめることである」という価値観を持っていたから、東夷と通婚することはまず考えられない。現在の中国人に小数点以下の割合でしかD系統が現れないことからもこのことは裏づけされる。中国人と東夷はお互いの違いを強く意識していたものと思われ、古代の中国人の東夷に関する記録もやはり、東夷における異質性、つまりD2系統の存在、渡来系縄文人の存在を示唆しているのである。于夷はO系統とD系統の混血であったから、日本に渡ってきたときにも先住のD系統の縄文人を同類として受け入れたのであろう。

 この縄文系渡来人説は、渡来系弥生人と縄文人には形態に大きな違いがあるとされる通説からは奇説と受け取られるかもしれない。しかし「渡来系とされる弥生人集団の中にも稀に縄文人的顔貌の個体が見いだされる事がある」し、「これまでの解釈を混乱させる新事実」も発見され「見逃し得ない重要な問題点をはらんでいる」(『弥生文化の研究』1)とされているのである。発掘例の蓄積が少ないことから研究者の表現は慎重であるが、これらの事実は縄文系渡来人の存在を示唆しているのではないか。崎谷氏も、朝鮮半島を経由してD系統が西九州へ移動してきたという説を前提にした話であるが、「形質人類学による重要な指摘、つまり西九州(長崎)における金属器時代(弥生時代)において、新石器時代の縄文人の形質を持つ「縄文系弥生人」が存続していたことも説明がつく」としている。

 現在のところ、頭や顔の形がどのような遺伝子に支配され、どのように遺伝するかはわかっていないが、とりあえず形態を支配している遺伝子は、核のDNA配列のなかにあると推定されている(『日本人になった祖先たち』)。O系統とD系統の遺伝子プールのなかから、どのような形態で生まれてくるかは予測不可能で、D系統の遺伝子をもっているからといって縄文人顔になるわけではないのである。

 西原理恵子氏の『サイバラ(だけ)2』(講談社)の「もっとおもしろくても理科」に興味深い話がある。こてこてのアジア顔の両親から、西洋人顔の子どもが生まれてくる実例があるのである。このことを知れば、遺伝子をもっていることと、形態に現れることがイコールではないことがわかる。

 現代日本人の四○%がD系統の遺伝子をもっているはずなのに、現代日本人に縄文人顔が四○%もいるようにはみえない。どうもD系統の遺伝子は形態に現れにくい傾向があるようである。中橋氏らの調査で北部九州と山口の弥生時代の遺跡の縄文人タイプの割合が調べられたときも、形態に現れた割合が一七%ということになっただけであって、DNAの縄文系の割合はわからない。渡来系縄文人の割合がもっと高かった可能性も考えられるのであるが、現在の技術では古人骨からY染色体を分析することはできない。

 しかもこの一七%の縄文人タイプが日本列島由来の縄文人によるものとする証拠もないのである。そもそも日本列島由来の縄文人の数だけを人口増加計算の根拠としたのでは、現代日本人のY染色体の亜型分布が、縄文系とされる人が四○%で、弥生系とされる人が六○%になるという驚くべき事実の説明がつかない。縄文人が足りないのである。先に述べたように、縄文人と同種のD系統の遺伝子をもつ人びとはアジア大陸に広く分布していたのであるから、縄文人タイプが日本列島だけにいたとするのは思い込み、先入観に過ぎない。もともと渡来人のなかに一七%の縄文人タイプが含まれていたなら、そのような分析結果になったとしても不思議はない。五○○体を超える中橋氏らの調査の結果そのものが「渡来系とされる弥生人集団の中にも稀に縄文人的顔貌の個体が見いだされる事がある」実例と考えることもできるのである。

 このことを裏付けると考えられる事例が実際に見つかっている。先に挙げたように、篠田謙一氏は一九九六年から九八年にかけて南京博物院と共同で古人骨の研究をした際に、三六体のうち一三体からミトコンドリアDNAの抽出に成功して塩基配列を決定している。その結果、「日本の古人骨集団の中に江南古人骨と同じハプロタイプを持つものが2種類あった」のである(『中国江南・江淮の古代人』てらぺいあ)。ハプロタイプとはDNA配列のことで、北海道の船泊縄文人の一一体中三体、渡来系弥生人の集団である隈・西小田遺跡の三三体中五体に共通するものが、梁王城4番と江蘇省揚州市轄区儀征市の古人骨のハプロタイプと一致したのである。もうひとつの例は、梁王城2番と隈・西小田遺跡の一個体が共通配列を持っていた。梁王城は江蘇省徐州市轄区()州市の南部で、駱馬湖の北西にあたる。

 篠田氏はミトコンドリアDNAの一部であるDループ領域のみの分析であるとして、縄文人との配列の一致は単純に「他人のそら似」の結果を見ている可能性が高いとしている。これはのちに、縄文人の持つ同一のタイプが他の地域では見られない別のハプログループN9bに属することがわかったからで、九〇年代まで行われたDループ領域のみの分析の限界であるという。また、古人骨のDNAは経年劣化によって断片化していることもあり、各ハプログループ特有のモチーフが欠損していて、上位分類群までは判定できたが、下位分類が不能であったものが七体あった。

 篠田氏が慎重になるのはわかるが、それをいえばこの研究の全部に将来「他人のそら似」が発見される可能性があることになってしまう。この地域の古人骨の分析事例が蓄積されて「他人のそら似」が証明されるまでは、不十分だとしても、わたしは現在の分析の配列を前提として議論を進めることとする。

 ミトコンドリアDNAは母から子に伝えられるものであるから、北海道礼文島の縄文人と北九州の弥生人が同じDNAの配列を持っていたということは、北九州の五体の弥生人の母親は縄文人ということになる。この五人は同じ母親の子供か孫かその子孫であったことになる。そして同じく春秋時代の梁王城4番と春秋時代の儀征の母親も縄文人ということになる。現在の古代史の常識からするとあまりにも飛躍しすぎた結論になるので、縄文人との配列の一致にのみ篠田氏が「他人のそら似」の予防線を張ったようにも思われるが、篠田氏は『日本人になった祖先たち』では、ハプログループの「M7aもN9bもその成立年代は一万年以上昔にさかのぼるので、縄文時代に日本で誕生したものではなく、大陸で成立したと考えられます」と、縄文人のルーツは大陸にあるとしているのである。

 そしてこの研究にはもうひとつ重要な発見があった。江蘇省揚州市轄区寶應県5番の宋代のサンプルが現代の山東省の漢民族と現代の本土日本人に共通する配列を持っていたのである。しかもこれと同一のハプロタイプは他の漢民族集団には見られないので、「これは比較的地域に限局して存在するタイプの配列だと想像される」という。そして今回の研究によって新石器時代((せい)(れん)(こう)文化の劉林期、約六三○○~五五○○年前)の劉林7番の場合にも同様のことが言え、現代の本土日本人と現代の中国の東北部からモンゴルにかけての集団、さらにブリヤートに、劉林7番と同一の配列を持つ人がいることが確認された。劉林は江蘇省徐州市轄区邳州市北部にあたる。いずれのハプロタイプもDNAデータバンクに登録された朝鮮半島の集団には一致するものがなかったため、篠田氏はこのハプロタイプは朝鮮半島を経由して日本にもたらされたとは考えにくいと結論している。

 これらの事実は新石器時代にシベリアから蘇北平原にまで南下してきた集団がいたことを示していると理解できる。劉林7番と梁王城4番は東夷がシベリアから南下してきて、さらに日本列島へ渡来してきた途中の足跡をピンポイントで示しているのである。

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